1780年代の王立科学アカデミーと政治経済学
  --「エコノミー」分類と議事録からの考察--
            東京大学大学院   隠岐さや香
L'Académie royale des sciences de Paris et l'économie politique dans les années 1780--<<OEconomie>> dans les Tables de l'Académie et les procès-verbaux--
Université de Tokyo OKI Sayaka

 本発表の目的は、フランス革命の陰に隠れ、見過ごされがちであった1770年代から1780年代末に焦点をあて、革命の胎動ともいえる社会・政治的変動の中でパリ王立科学アカデミーがどのように自らを位置づけていこうとしたのかを、終身書記コンドルセの科学思想と関連づけて考察することである。
 まず社会背景として、18世紀は、「公論」(opinion publique)が無視できない影響力を持つようになった時代といわれている。公論の介入できない領域は無く、科学的知の定義をめぐる議論においても無視できぬ存在感を発揮していた。18世紀の人々にとって、公論は政治的・文化的に超越的な審級として認識されるに至っており、政府も科学者も、それを無視することなどできなかったのであった 。他方、フランス絶対王政内部においては、矛盾と諸勢力の緊張を孕みつつも、国家の社団的編成を解体し、近代的な中央集権制を目指そうとする方向性が強まりつつあった。
 ところで、1750-1850年という世紀転換を挟んだ100年間は、特にフランスを中心に、諸科学における計測・計算の応用方法、対象の分類・順序づけや体系化をはかる知的実践全般が検討され、「科学的知識」および「科学の対象」の再定義が行われた時代と位置づけられる。とりわけ、近年「政治経済学」(économie politique)については、数学史との関係性も含めて、「経済学前史」という枠組みでは括りきれない様相が明かになりつつある。そして、18世紀末のフランス科学史において、「政治算術」、「政治経済学」、「道徳政治諸科学」は自然科学と社会科学の歴史が交差し、重なりあう微妙な地点を示している。
 本発表では、コンドルセがアカデミーにいた1776-1789年の重要な社会的背景として、王権の中央集権化とそれに対する公論の成長という二つの要因に注目し、その王権と公論の狭間で「王立」科学アカデミーが1780年代に選択した戦略について考察する。そこで確認されるのは、アカデミーの戦略が、「公衆の意思を代弁する機関」と自らを位置づけつつ、政治経済の問題に積極的に介入する、という形をとったことである。そのことを示す資料として発表者が着目するのは、(1)アカデミーの論文集索引目録において「エコノミー」という下位分類に区分された諸研究・報告事例及び、(2)未公刊の議事録に残る活動の記録などである。(1)に関しては、1780年代に「エコノミー」区分論文が増大しており、化学者と数学者を中心に政治経済への関心が広く共有されている様子が確認出来る。(2)においては、とりわけ1780年代後半に、国営の生命保険会社の企画案審査の委託請負など、国家の経済政策に関連する業務に積極的に参与していく経過が伺える。そして、両者を通じて浮かび上がってくるのは、終身書記として間接的にそれらの傾向を支援しつつ、並行して自らの「社会数学」構想を磨き上げ、一人の学者として積極的にその動きに加わろうとするコンドルセの姿である。
 だが、公論を意識した科学アカデミーの方針は当の公衆と充分にかみ合っているとはいえなかった。18世紀は空前の「科学ブーム」が起きた世紀といわれており、後半にはとりわけ政治経済学関連の書物への関心が高まっていたが、科学アカデミーによる科学的探求としてなされた政治経済学、道徳政治諸科学は世紀初頭のフォントネルの書物ほどの関心も集めなかったようである。そして、これは他の自然科学においても同様であった。アンシアン・レジーム末期のフランスでは、科学アカデミーによらずとも自然科学研究が可能な協会や教育機関が次々に成立していたのである。他方、科学教育を受けた人口の増加と共に科学アカデミーが狭き門となりつつあり、丁度政権とのパートナーシップにより知的権威を高めつつあったことも相まって、反アカデミーの声はますます高まっていくことになる。
 従って、フランス革命前夜の科学アカデミーとコンドルセ双方を特徴づけるのは、社会科学的知の導入により今日的な近代国家と近代科学のパートナーシップの第一歩を築きつつある一方で、公論との距離感をうまく設定できずに存在意義を模索する様相であろう。科学アカデミー史のロジャー・ハーンは、技術の分野に着目し、アカデミシアンが「技術的なコンサルタント」のように公衆に認識されたことが、アカデミーの伝統的な権威や存在意義に危機を生じたとしているが、政治経済および道徳諸政治科学への偏向も類似の効果を及ぼしたのではなかろうか。こうして、変容しつつあったアカデミーは革命期の社会変動の中でひとまずは消えていくことになるのである。