コンドルセの生涯と主な著作

コンドルセ(Marie-Jean-Antoine Nicolas Caritat,marquis de Condorcet,1743-94)

1743 リブモンに出生
1754  ランスのイエズス会コレージュへ
1758-59 コレージュ・ド・ナヴァルで数学に関心を持つ 
1762 軍職に就くことを拒否してパリで数学を志す ダランベール(1717-83)と知遇を得る
1765 「積分論」
1767 「三体問題について」
1768 「解析の試論」
1769 科学アカデミーに入る レスピナス嬢のサロンに入りテュルゴ(1727-81)と知り合う
1770 ダランベールと共にフェルネイへ旅行 ヴォルテール(1694-1778)を訪ねる
1774 テュルゴ財務総監に就任(〜76年) コンドルセ造幣監察官に任命される
1775 「夫役について」「普遍的法律学についての考察」「土地台帳改正計画について」
1776 科学アカデミー終身書記に就任 エロージュの執筆 
1777 テュルゴ失脚により失望 『百科全書』の補遺(76-77)数学的解析について22の項目
1778 「いくつかの無限級数について」
   「流体の抵抗についての新しい実験」(ダランベール、ボスュらと共著)
1781-84 「確率の計算についての論文」をはじめとする一連の解析による確率論論文
     確率論への関心と社会・人間的な事象に対するその応用
     その他「黒人奴隷についての考察」
1782 アカデミー・フランセーズ会員となる 会員就任演説で道徳・政治諸科学について言及
1783-1788 「王国の人口を知るための試論」
    (ミッショディエールの統計調査:ラプラス、デュ・セジュールらと連名)
1785 『多数決により下された決定の蓋然性に対する解析の応用の試論』選挙理論 意思決定論
1786 ソフィー・ド・グルーシイ(アダム・スミスの『道徳感情論』の翻訳などが有名)と結婚
1788 「地方議会の構成と機能についての試論」など
1789 三部会召集 コンドルセの政治的活動の活発化 フランス革命 
   パリ・コミューンのメンバーになる
1790 シエースらと「1789年協会」結成
    教会財産や僧侶に関する諸法令、財政問題、
    度量衡の統一、貨幣の改鋳問題などに関わる
1791 ジャコバン・クラブに入会 国王のヴァレンヌ逃亡事件後共和派に 
   立法議会議員に選出される 「共和政について」
1792 革命戦争の始まり
   公教育論の提出 国民公会議員に選出される 
   『公教育に関する五つの覚え書き』『革命議会における教育計画』
   「財政に関するディスクール」など
1793 国王の処刑
   ジロンド派に近い中立の立場で新憲法起草の中心に ジロンド派憲法草案否決    
   山岳派憲法の採択→「新憲法に関してフランス市民へ」 訴追され逃亡
   「新しい憲法をフランスに制定する必要性について」
   「計算を道徳・政治諸科学に適用することを目的とする科学の一般的タブロー」
1794 ブルグ・ラ・レーヌにて逮捕 獄中死 自殺か過労死かは謎
    テルミドールのクーデタによりロビスピエール失脚 反動期
1795 『人間精神進歩の歴史』出版 
    国民公会解散 総裁政府成立(〜99年)