第一章 道徳・政治諸科学と社会数学


「我々の偏見、その結果としての害悪、それらは我々の祖先の偏見に源があるのではないか。我々にその誤りを悟らせ、他の偏見を防ぐための最も確実な手段の一つは、それらの起源と結果を分析することではないだろうか。」
     ---コンドルセ『人間精神進歩史』(1)


 近代ヨーロッパの17世紀はいわゆる「科学革命」の時代であり、宇宙像と自然像の転換の下で諸科学が急速に発展した。これに対し18世紀は、社会制度の革新を叫ぶ思想家の輩出に見られるように、社会像または社会における個人のあり方への関心が急速に高まった時代であった(2)。自然諸科学(natural sciences)が自然を対象にする学問であったのに対し、人間と社会を対象にする学問は「道徳・政治諸科学」(sciences morales et politiques) と呼ばれ、それを基礎づけることは啓蒙期の知識人の関心の的であっ
た(3)。
 「最後のフィロゾーフ」、コンドルセ(Marie-Jean-Antoine-Nicolas de Caritat Condorcet,1743-94) はこの問題にもっとも熱心に取り組んだといわれる人物であり、とりわけ、数学の応用により道徳・政治諸科学を厳密な科学として基礎づけることを説いた(4)。すなわち、経済的、政治的社会行動(価格形成や投票など)の分析から個人の認識や信念のメカニズムの分析にまで数学的手法を用い、自然科学と対等な応用科学を作ることを構想したのである。その場合の数学的手段としては、当時発展途上にあった確率論を重視した。また、社会を対象にするに当たって、社会そのものの情報を集めるため、国勢調査などの統計的手法も重んじた(5)。 従って、コンドルセが考えたのは確率論を統計学的な手法と共に社会領域へ応用する科学であり、彼はそれに「社会数学」(math士atique sociale)と名付けたのである。
 だが、コンドルセの「社会数学」の構想が正確に見直されることは少なかったと言えるだろう。その一因には、19世紀を通じて大きな影響をふるった実証主義の祖であるオーギュスト・コントのコンドルセ評価が後世に与えた影響がある。「社会学(sociologie)」の創始者となった彼は、自らの「精神的父」としてコンドルセを挙げ、コンドルセの政治思想や歴史観を再解釈して評価した(6)。だが、社会現象の記述に数学を適用することを全く認めなかったのである(7)。
 また、19世紀の歴史家・思想家の影響で、18世紀フランスが一般に「啓蒙」の時代、楽観的な進歩主義が謳歌していた時代、と一面的に捉えられるようになったことも災いした。とりわけコンドルセは、人間の進歩の歴史的必然性を証明しようとした遺著、すなわち、コントも絶賛した『人間精神進歩史』(Esquisse dユun tableau historique des progr峻 de l'esprit humaine )(8) の印象を引きずったため、夢想的で楽観的な進歩主義者、啓蒙主義の代弁者、という面のみが強調されて伝わった。
 しかし、18世紀の啓蒙主義的知識人達の思想は決してそのように一面的な理解で捉えられるものではない。啓蒙主義として一括りにされた彼等の思想は実に多種多様で豊かな可能性を秘めていた。我々はえてしてその一面しか見ていない場合が多いのである。コンドルセはまさにその好例である。
 本稿の目的は、「社会、人間を数学という言語により科学的に記述出来るとする思想の源流であり、19世紀の統計万能時代を用意することになった、コンドルセの科学思想の具体的な内容を分析、考察すること」である。ここで、「統計万能時代を用意した」という
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表現は、近代統計学の父といわれたA.ケトレに大きな影響を与えたP.S.ラプラスが、更に確率論の統計学的側面での応用においてコンドルセの影響を受けていることに依ってい
る(9)。また、統計学史的に言うと彼の「社会数学」は、17世紀以降発展してきたフランス確率論と、イギリス「政治算術」(political arithmetic)の最初の本格的な合流地点を成すものという見方も出来る(10)。この両者は後にドイツ国状学と合わさってケトレの近代統計学に結晶するとみなされているものである(11)。 だが、本稿での分析は既存の統計学・確率論通史を追認するために行われるのではない。「社会数学」は今日の統計学史や確率論史の枠組みだけでは捉えきれない側面を多く含んでいる。著者は、20世紀から見た個別の学の歴史という視点を離れ、あくまでも18世紀フランスの文脈においての「社会数学」そのものを検討したいと思っている。そして、どのような問題意識が「社会数学」を導いたのか、それはどのような形で後世に影響を与えることになったのかを考察していくつもりである。
 では、本格的な分析に入る前にその前段階として、第一章では道徳・政治諸科学とコンドルセの社会数学について、その全体像を展望しておきたい。


(1)Condorcet,Esquisse d'un tableau historique des progr峻 de l'esprit humain (Paris,1795[repr.,1988]),p.88 より著者が訳出。日本語の翻訳としては、渡部誠訳『人間精神進歩史』  第一部、第二部(岩波文庫、1951年)がある。
(2)安藤隆穂『フランス啓蒙思想の展開』(名古屋大学出版会、1989年)、1ページ。
(3)阪上孝編著『統治技法の近代』(同文館、1997年)、21ページ。
(4)アカデミー・フランセーズ会員就任演説(Discours de R残eption ? l'Acad士ie Fran溝ise)。
  Condorcet,ホuvres de Condorcet, t.I,eds.A.Condorcet-O'Conner and Fran皇ois Arago(Paris,1847),pp.-392-393.
(5)ホuvres, t.,I,pp.539-573.
(6)田辺寿利『フランス社会学成立史』(有隣堂出版、1965年)、2ページ。
(7)K.M.Baker, Condorcet, From Natural Philosophy to Social Mathematics ( Chicago and London,1975), pp.vii-xii.
(8)註(1)参照。
(9)Roshdi Rashed, Condorcet;Math士atique et Soci師? (Paris,1974) ,p.43,p.54.
  コンドルセのラプラス、ケトレへの影響関係については本稿第三章第二節で論じる予定である。
(10)ホuvres, t.,I,pp.539-573. Rashed,op.cit.pp.106-112(Encyclop仕ie m師hodique, t.I, pp.132-136の抜粋。ラシェド氏の上掲書は後半がコンドルセのテキストの抜粋集になっている)。
(11)小杉肇『統計学史』(恒星社厚生閣、1984年)。


    第一節 道徳・政治諸科学と社会数学の関係

 道徳・政治諸科学は二人のイギリス人の偉業--ニュートンの自然学(ただし宗教色は除かれた)とロックの認識論哲学--の影響下に、18世紀フランスで生まれた概念である。それは、人間自身を対象とし、法賢慮(法学)、政治経済、その他の社会関係を研究する分野とされた。今で言うところの心理学、倫理学、政治学、経済学を包含するものと考えてよいだろう(12)。だが、道徳・政治諸科学は、19世紀に誕生した社会・人間諸科学に連続する部分を持ちはするものの、基本的にはそれらと異質のものであった。例えば、19世紀以降の社会学や歴史学では社会や文化を一つの単位として考察の対象とするのに対し、道徳・政治科学においては、個人やその個別の精神が研究の対象であり、社会はそういった個人の集合体として把握されていたのである(13)。
 また、道徳・政治諸科学は、啓蒙主義的知識人--「フィロゾーフ」(philosophe)らによる、社会の不正と宗教的迷信への反対活動という側面をも持っていた(14)。
 18世紀のフランスは、弱体化した王権の下、聖職者や貴族、商人ギルドなど、特権を与
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えられた各職業・身分集団による「社団」が互いに利権を巡い、政治は腐敗しきっていた。そうした状況下で、サロン、カフェ、文芸協会、読書クラブなど、身分や職業団体によらず個人を基本にした社会関係を築いてきた知識人達--「フィロゾーフ」や「フィジオクラート」、文学者や科学者--を中心に、啓蒙思想への共感が広がっていたのである。社会と知識の旧体制からの脱出を唱え、双方を近代化していこうと模索していた彼等にとっては、科学こそ人間を古き伝統のくびきから解き放つための強力な武器であると思われていた。道徳・政治諸科学はまさに自然科学をモデルに、混乱した人間と社会を理性の光で照らし出し、正しいあり方へと導くための知の体系として構想されたのである。そして、1780年代以降その構想の中核を担ったのがコンドルセであった。
 ところで、今まで「道徳・政治諸科学」という語を特にことわりなく用いてきたが、当のコンドルセはこの科学の呼称を統一して用いていなかった。と、いうのも彼は、1780年代までは道徳科学(sciences morales)、政治科学(sciences politiques)、道徳・政治諸科学(sciences morales et politiques) などを用い、1790年代にはそれらに加えて社会科学(sciences sociales)、形而上学的または社会的科学(sciences m師aphysiques ou sociales)などの語も用いるようになっているのだが、それらの定義を充分に明確に与える機会の無いままこの世を去ってしまったのである。
 このため、コンドルセや18世紀思想を扱った研究書においても、道徳・政治諸科学にあたる語彙やその訳はまちまちになっている。例えば、K.M.Bakerは社会科学(social science)の語を多用した上で、「社会科学」という名称の起源について巻末で詳細に述べているし、Roshdi Rashedもscience socialeを主に用いている。一方、伊藤邦武や阪上孝はscience moraleの邦訳である「精神科学」を中心に用いており、L.DastonやI.Hacking は確率論を中心にした著書の中で、moral scienceという用語をほぼ統一的に用いている。
 しかし、一定しない用語は、コンドルセの構想が不断に発展を続けていたことを物語るものでもある。1780年代のコンドルセは、道徳科学(sciences morales)を「人間精神そのもの、もしくは人間同士の関係を主題とする諸科学」と広く定義した(15)。それから、多くの同時代人たちと同様、「道徳科学」を人間の精神の働きに関連する分野と位置づけるようになり、そこでは感覚と思考の分析が主な課題とされた。そして後にはこの分野を心理諸科学(sciences psychologiques)と呼ぶようにもなり、倫理や政治、立法や法賢慮(法学)、経済、人口統計などに見られる人間の社会関係を扱う分野とはやや区別して扱うようになった。社会科学(sciences sociales)という名称は、主にこの後者について1790年代以降、好んで用いられるようになったものであった。しかし、上述したように、道徳科学、政治科学という言葉も晩年に至るまで用いられ続けており、彼自身の中でも定義が定まりきっていなかったことを示している(16)。従って、本稿では参照する文献や文脈に応じて、「道徳・政治諸科学」「社会科学」のいずれかを用いるが、特に注記の無い限り、それらはほぼ同一の意味を示すと思っていただきたい。
 さて、道徳・政治諸科学が18世紀後半の知識人にとって共通の関心事だったわけだが、コンドルセが提示したそれには、後に別領域に別れることになる二つの要素が含まれていた。一つ目は、人間の社会形態の歴史的変遷などを考察した、歴史理論とでもいうべき分野であり、後に『人間精神進歩史』(Esquisse d'un tableau historique des progr峻 de l'esprit humain ) にその一部が結実することになった。二つ目は、今日でいうところの確率論、統計学、意志決定理論、費用・便益分析(cost-benefit analysis) 、合理的選択理論、応用経済学などを包含するものであり、初期の論文では特に「道徳・政治諸科学への計算の応用」(l'application du calcul aux sciences morales et politiques) などと表現されていた領域だった(17)。後者がこの章で述べる「社会数学(math士atique sociale)」の内容である。この概念は彼独自のものであった。
 コンドルセにとってこれら二つの要素は分裂したものではなく、互いに補完し合う関係
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にあった。歴史理論は人間社会の構成原理を探求する抽象科学であり、一方「社会数学」
の方は、前者から得た抽象理論を基盤としつつ、実際のデータを収集・分析することで社会や人間の存在条件をどう改革・改善していけるかを考察する実用的な科学と位置づけられていたのである。しかし、比較的よく知られた前者の歴史理論に比べ、後者の「社会数学」が次第に軽視され、忘れられる運命にあったのは先に述べたとおりである。
 では、それはどのようなものであったのだろうか。彼の「社会数学」の構想が最初に萌芽的な形で示されたのは1782年1月に行われた、アカデミー・フランセーズの会員就任演説の内にであり、彼は次のように述べている。

我々の時代にほぼ作られたといえる、人間自身を対象とし、その直接の目的は人間の
 幸福であるこれら諸科学は、自然諸科学に劣らぬ確かな歩みを示すであろう。........
 道徳科学の性質をよく考えてみると、たしかに、自然科学のように事実の観察に基づ
 いているので、以下のことを認めずにはおれないのである。すなわち、道徳科学も
 [自然科学と---引用者]同じ方法に従い、同様に正確で厳密な言語を獲得し、同程
 度の確実性に達するに違いないということを。我々の種に属していない存在には、両
 者の間に違いは無いであろうし、その存在は、丁度我々がビーバーや蜜蜂の社会を研
 究するように、人間の社会を研究するであろう。だが、ここでは観察者自身が観察さ
 れる社会に参加しており、真理を裁く者は先入観を持つ者か買収された者しかあり得
 ない。それゆえ、道徳科学の歩みは自然科学の歩みよりも遅いものとなるだろう....(18 )

 ここで強調されているのは、自然科学と同じ方法論と「正確で厳密な言語」(すなわち数学である)を応用することにより、道徳科学も自然科学と肩を並べられるような一人前の科学に成長するだろうということである。そして、彼がこの演説のために用意したとされる別の手稿には、道徳科学が自然科学と「同程度の確実性に達する」と主張する上での根拠付けについてもう少し詳しく論じられているが、演説もその手稿も、依然として哲学的な考察、抽象的な構想の段階に留まっていた(19)。
 就任演説で示された彼の構想が実際に具体的に提示されたのは、1785年に出版された『多数決の蓋然性に対する解析の適用の試論』(Essai sur l'application de l'analyse ? la probabilit? des d残isions rendues ? la probabilit? des voix )(20)(以下、『試論』と略称)という500ページ程の長い論文においてであった。彼はこの論文の序論で「社会数学」の認識論的基礎付けを行い、本論でその応用例を示している。コンドルセ自身も序文で述べているように、彼の論の新しさは、「意見の多数性によりなされる決定の蓋然性(確率)の検証」という、意志決定の分野への確率論の応用を考えたことであっ
た(21)。そして、コンドルセはこの『試論』を自分の社会数学上の最も重要な業績と認識していた。道徳・政治科学への数学的処理の適用可能性をテクニカルに立証する著作と考えていたのである(22)。
 だが、『試論』の詳しい内容の記述に入る前に、彼の学問構想の全体像を今一度整理する意味で、いささか時代は前後してしまうのだが、もう一つ別の論文を見ておくことにする。その論文とは、死の前年である1793年、6月22日と7月6日に発表された「政治・道徳科学に計算を応用することを目的とする科学の一般的タブロー」(Tableau g始屍al de la science qui a pour objet l'application du calcul aux sciences politiques et morales )(23)である。



(12)Ian Hacking, The Taming of Chance ( Cambridge,1990), pp.37-38.
(13)L.Daston,Classical Probability in the Enlightenment (Princeton,1988), pp.298-300.
(14)loc.cit.
5
(15)ホuvres , t.,I,p.392.アカデミー・フランセーズ会員就任演説より引用。
(16)Baker,op.cit.,pp.197-8.
(17)I.Hacking,The Taming of Chance (Cambridge,1990),p.39.
(18)註(15)と同じ。
(19)アカデミー会員就任演説のために用意したとされる手稿については、Rashed, op.cit., pp.95-96に抜粋が載っている。
(20)Condorcet,Essai sur l'application de l'analyse ? la probabilit? des d残isions rendues ? la pluralit? des voix (Paris,1785[repr.New York,1972]).
(21)Essai sur l'application de l'analyse, p.ii.
(22)ホuvres, t.I.p.305.
(23)「一般的タブロー」はホuvres, t.,I,pp.539-573に収録されているが、このほかRashed,
op cit.,pp.196-216 にも全文の抜粋が原語で載っている。本稿第一章第二節を執筆の際には  そちらの方を手元においていたので、以後はそのページ数を表記する。



 第二節 社会数学の全体像

 コンドルセが、道徳・政治諸科学への数学の応用と位置づけていた一連の試み--その成果の一部は『試論』という形態をとっていた--に初めて「社会数学」という名を与え、その科学の最終的な体系構想を明らかにしたのは、前述の論文「一般的タブロー」においてであった(24)。
 コンドルセはその「一般的タブロー」の冒頭で、数学の発展が進んだ結果、道徳・政治科学への計算の適用が起こったことに触れ、前世紀のオランダのヤン・デ・ウィット
(Jan de Witt)や英国のペティ卿(Sir William Petty)らがその先駆を成したと讃える。そして、その時代にパスカルやフェルマにより確率計算が創り出されたが、パスカルらはそれを「賭けの遊びより他には敢えて適用しようとせず、それをより重要で有用な用途に用いることを思いつきもしなかった」と、述べたあと次のように言う。
 
現在では、これらの適用(道徳・政治科学への計算の適用)の広がりにより、一つの科学が構成されているものとみなすことが可能になっている。私はそのことについての一覧表を書くことにする。この(計算の)適用全てが、社会的な関心か、人間の精神の働きの分析に直接に関連するものであり、そして、この後者の場合において、計算の適用で問題にするのは、社会により人間が改善されることより他にないのであるから、私は、「社会数学(math士atique sociale) 」がこの科学に最も適する名称だと思うようになった。私が、「数学(math士atique) 」という言葉(実際には単数形では使われなくなっているにもかかわらず)を「算術」や「幾何学」、「解析」という言葉よりも好ましいと思うのは何故かというと、それら算術などの言葉は数学(math士atiques)の一部分や数学が採用している諸方法の一つを指し示すものであるが、ここでは算術の適用同様、代数や幾何学の適用も問題になっているからである。
 つまり、ここでは全ての方法が用いられるような適用が問題になっているからである。[......]私が「社会 (sociale)」の言葉を「道徳(morale)」や「政治(politique)」より好むのは、後者の言葉の意味は前者より適用範囲が狭く、意味も厳密でないからである。[......]もしこの科学がより領域を拡げ、より開拓されたら、それがどれほど人間の幸福や人類の改善に貢献するかがわかるだろう(25)。 

 そして、この新しい科学の有用性を感じるために二つの考察を加えている。それによれば、1)ほぼ全ての信念や人間の行動を律する判断は、それらの蓋然性(probabilit?)の強弱に基づいて成されているが、その蓋然性は曖昧で無意識的な感覚(sentiment)や大ざっ
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ぱな直観に従って評価されたものでしかない。また、2)全ての尺度や計算から独立して
存在する「絶対の真理」というものは何物にも適用不可能であり、曖昧である。そして、
計測や組み合わせが可能な事柄にとって、それらの真理は第一原理に留まったままであり、それ以上の働きをすることのない不十分なものである(26)。以上のことから考えて、厳密な計算を伴わない推論に頼っていると、誤りを犯す危険に晒されることになる。というのも、たとえ「絶対の真理」があったにせよ、抽象的な第一原則の域を出ないそれでは、日常的な実際の推論の役に立たないこともあるからである。
 従って、人は重要な信念や判断を扱う際には、それらの内容が理性に従っているか、真理であるかのなどの蓋然性を「厳密な計算」の適用により検証してから採用すべきだ、というのである。(ここでの計算はほぼ確率計算と捉えてよい。)そもそも全ての判断が蓋然性の多寡の推測(直観的で不正確なものであっても)に依っているのだから、その蓋然性の値をより正確に定量的に評価することが出来ればそれに越したことはない、というわけである。
 もちろん、日常の信念や判断全ての蓋然性をいちいち計算することは不可能であるが、この計算の応用を全く行うこと無しには、道徳・政治科学が自然科学のような発展を遂げることはないだろうし、そもそも全ての進歩は不可能になるだろうとコンドルセは言う。そして、既に恐怖政治の幕開けを迎えていた時代を背景に、彼は、無秩序が避けられない大動乱の時代から速やかに立ち直るためには、熱情や雄弁に動かされた非理性的な推論や価値判断(それらは皆誤謬の基である)に従って動くのを止め、厳密な確率計算の適用により、理性的な判断を取り戻すべきだと述べるのである。
 テクニカルな問題として、コンドルセは「社会数学」に必要な数学理論ということで次の五点を挙げた。それらは、1.「時間に比例して増加しうる量の理論」、2.「組み合わせの理論」、3.「観察された事実から一般的な事実や法則を推論する方法の理論」、4.「確率計算の理論」、5.「平均値の理論」である(27)。まず1.「時間に比例して増加しうる量の理論」は、社会現象の中でも経済問題、すなわち貨幣の流通に関する問題を考察する時に特に重要になる。2.「組み合わせの理論」は仮説的に様々な場合(「仮説的事象」)を考え、分類する時必要となる。そして、3.「観察された事実から一般的な事実や法則を推論する方法の理論」は実際の観察から得られたデータとしての「実在事象」から一般的な事象・法則を推論するために必要な分類の方法に関わるとされる。例えば、ある州の何年かにわたる死亡数のデータから、平均的な死亡率や、年齢を追うごとの死亡者数の増加の法則的な式が導く、などの場合である。そして、4.「確率計算の理論」の重要性は前述の通りであり、5.「平均値の理論」は同じであるべき事象のデータが異なる形、値で現れてしまうとき、どれがその事象を代表するべき値が選ぶために用いられるのであり、これは自然科学の実験や観測においてそうであるのと同じである、と述べた。
 これらを方法論に据える一方で、コンドルセは「社会数学」の対象となるのを「人間が対象となる場合」、「物が対象となる場合」、「人と物が対象になる場合」の三分野だとする。
 まず、「人間」を対象とする第一分野は、個人としての人間が天候や慣習、制度などの環境から受ける影響の数学的な分析、及び、人間の精神の働きについての考察、という二種類を扱うものである。個々の人間を生活・環境・認識全ての側面において網羅、分析し、その個々人の集合としての社会活動をも考える政治理論を扱う分野と言っていいだろう。 前者の、「個々人への環境の影響」を調べるには、環境の各因子が個別のものか、相関しているのか、相乗効果はあるのか、などを知るため、何が原因で何が結果かを確率計算により検証しなければならず、その為に正確な統計分析法の確立の必要性が説かれる。一方、後者の「人間の精神の作用」を扱う場合では、人が推論に基づいて判断を下す際の精神の働きを分析する。たとえば、判断の際に抱いている信念の根拠はどのような性質のものかを分析し、日常的に人々が用いている直観的な判断と、重要な行動を決める際に行われる理性的な判断との違いを考察したりするのである。そして、ある命題が真であると判断することの「信頼性の根拠(motif de cr仕ibilit?)」の蓋然性を確率計算により測り、後の判断に役立てることなどが提唱される。
 また、厳密な推論のみならず、表作成や計算など「技術的」な知的作業を行う際の精神
の働きにも同様に確率計算を応用していくことも提案されている(28)。
 こうして、一個人における精神の働きの進行過程について一通り分析した後は、複数の人間により同時に行使される精神の働きについてそれを行うのである。この多数の人間の意思が働く例として、多数意思の表れとしての選挙の方法や、候補の決定に関する問題が扱われることになってくる。前述した1785年の『試論』は、社会数学全体の中でも、この部分に位置づけられるべきものだったのだろう。以上が「人」を対象にする第一分野の内容である。
 次に「物を対象とする」第二分野であるが、これはものの「価値」の研究を基盤とする経済理論といっていい。コンドルセは、物の価値を測る共通の基準としての貨幣の発達を歴史的に振り返り、それが人間に普遍の傾向であることを確認する。共通の価値基準の成立は広く計算を適用するのに必要な条件であるので、これはこの領域へ計算の適用可能性の再確認でもある。そして、異なる価値体系、貨幣体系を持つ国家間貿易が、双方の経済にもたらす影響や、時代や地域ごとに変動が見られる価格形成の様子の探求などが提唱される。そしてコンドルセは、状況により変動を受けやすい貨幣による価値の基準の他に、より普遍的で一定した価値基準として一人の人間が必要とする食糧消費や生産力などを基にした「自然の基準」(mesure naturelle)なるものを構想することで、国家の富を正確に算定し、税制など経済政策に役立てることを提言している。また、階級ごとの経済活動の分析にも取り組もうとしている(29)。
 ここでコンドルセは、今までの経済理論がしばしば、抽象化されすぎ、巨大な水力機械の作用を計算する際と同じように、力学の一般原理を単純に適用するだけでよいもののごとく扱われてきたと指摘する。この様な例外や細部を無視した一般原理の適用では、「多数の人間により互いに独立な方法で遂行され、個々人の関心や信念、いわば直観により制御される」ような集団による活動であるところの経済現象を有効に記述し得ないし、「無視すべからざる細かいデータを無視」した現実にかけ離れた結果を導くことになってしまう。従って、経済活動を個人個人の意思決定と選択の場であると捉えるコンドルセは、その記述のためには、力学的な法則とは異なる数学的理論、確率論が有効であると説くのである(30)。
 このように、コンドルセの理論において確率計算は、それぞれの利害関心から経済活動に参加すると同時に、社会契約(pacte sociale)を成立させる集団の構成員でもある「道徳的な個人」の集合体としての社会を、政治・経済の両側面から捉えるために欠かせない方法論とされていたのだった(31)。
 最後に、「人と物」を対象とする第三分野についてだが、論文が第二分野までの解説で途切れているため、同論文に残された表や、前半部分で短く言及された第三分野についての具体例から推測することしか出来ない。それによれば、具体例としては「終身年金や生命保険」のあり方についての研究が挙げられており、要するに「人間」の理論としての第一分野と「物」の価値の理論としての第二分野の成果がクロスオーバーする複合的な領域であったのではないかと思われる。
 恐怖政治の渦中の1794年、『社会教育雑誌』(Journal d'instruction sociale)にこの論文を連載途中であったコンドルセは、国民公会から、ジャコバン派を中傷した罪で告発され、逃亡生活に入ることを余儀なくされた。逃亡中に執筆した遺作『人間精神進歩史』は死後出版され、啓蒙進歩主義史観の書として今日では彼の著作の中で最も有名であるが、社会数学の意義に触れた著作としては前述の「一般的タブロー」が最後のものとなった。
 では、最後に、社会数学において注意しておくべき特徴をあげておこう。
 まず一つ目は、「社会数学」が決して単なる数学の社会領域への応用を意味するのではなく、「自然科学」と対等な知の体系としての「社会科学」を成立させるための数学的応用理論体系として認識されていた、という点である。コンドルセ自身の表現を借りれば、社会科学と社会数学の関係は、鉱物学と鉱物の組成を調べるための化学理論のそれに等しいのである(32)。つまり、社会数学とは、数学の社会現象への直接的応用の試みではなく、
社会現象の数学的処理を可能にするため、数学に主導された第三の理論体系(意思決定論としての確率論)により社会科学と数学とを仲介しようとする試みだったのである(33)。
 二つ目に注目しておくべきは、コンドルセがこの「社会数学」を「神秘学」(science occulte)---- 一部の限られた人だけが理解可能な秘密の知識の体系---ではなく、「万人に開かれた実用的な科学」(science usuelle et commune)であると主張していた点である(34)。彼は、社会数学の進歩のためには数学者による理論的探求が必要ではあるものの、それを理解し実用に供するには初歩的な数学の知識があれば充分であると述べている。
 コンドルセがこのように考えたのは、1790年代の彼がそれまでの狭いエリート主義から転向し、普通選挙制をも視野に含めた民主主義理念の提唱者になっていたことに深く関係する。公教育の理念を提示したのもこの頃である(35)。啓蒙期の知識人が当然視していた、一部エリートによる知の寡占と支配、という前提から解き放たれたが故に、広く共有される科学として社会数学を位置づけることが可能になったのである。こうして「社会数学」は、コンドルセにより、啓蒙されたいと願っている市民全員が共有できる知の体系、かつそれにより更なる人間精神の進歩と幸福が可能になるような科学として構想されたのであったのである。


(24)コンドルセが初めて「社会数学」という名称使ったのは最晩年の1793年であるわけだが、その名称は 以前の「道徳・政治諸科学への計算の応用」などと呼ばれていた試みをも包含するものとされている。よっ て、いささかのアナクロニズムを犯すとはいえ、本稿では1780年代の『試論』も「社会数学」の成果の一 つということで統一させていただく。
(25)Rashed,op.cit.,pp.196-197.「一般的タブロー」の原文テクスト抜粋部分より。
(26)ibid.,p.197.
(27)ibid.,p.202.
(28)コンドルセは投票者の非常に多い選挙の結果をすぐに知るために使えるような計算機械を考案するの に、人間の精神・知性の働きを対象にした社会数学が貢献するだろう、との興味深い発言をしている。   ibid.,p.206.
(29)ibid.,pp.207-210.
(30)ibid.,pp.212-213.
(31)ibid.,p.213.
(32)ibid.,pp.215-216.
(33)ibid.,pp.32-33,p.64.
(34)ibid.,p.202.
(35)Baker,op.cit.,p.269.

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